その国には国を、家族を、民をとても愛する国王様がいらっしゃいました。
美しい王妃様方と12人の王子様、7人の王女様は毎日を優雅に御過しです。
これはとある国の見習い兵士と幼い姫君のお話です。
―飾らない言葉―しば著
春が近い暖かな日のこと。お城の広いお庭を、一人の見習い兵士が見回りのために歩いていました。花壇には色とりどりの花が咲き誇り、小鳥が歌を歌うような穏やかな昼下がりです。眠くなるのを堪えながら、兵士はお庭に不信な人間が居ないかを見て回ります。
お庭にある大きな池の畔に、上品な造りの休憩用の建物がありました。古い神殿の一部を模したこれは、もちろん兵士のためのものではありません。このお城の主、彼の絶対君主である国王様とその家族のためのものでした。そちらにも目を向けながら、兵士はすたすた歩いてゆきます。
今日は誰も居ないようです。普段なら読書が好きな王妃様や、勉強のためにいらっしゃる王子様方、王女様方の姿をちらりと拝見出来るのですが、今日は声も聞こえません。兵士は辺りを見回した後、誰も居ないのでこっそり近寄りました。そして、普段見ることの出来ない大理石のベンチを見学します。
彼は側を通るたびに、一度見たいと思っていました。見付かると兵士も兵士の部隊長も叱られてしまいますが、今日は特別にほんの少しの息抜きです。
(・・・・・・気持ちいいなぁ。)
座る事はしませんでしたが、兵士は深く深呼吸をして贅沢な気持ちになりました。赤茶色の結ぶには短い猫っ毛が、そよそよと風になびきます。
少し池の景色を眺めていましたが、再び兵士は歩き出し、逃げるように立ち去ろうとしました。
しかし、兵士は運が悪かったようです。大理石の太い柱の影、小さな女の子が隠れて兵士を見ていました。
(・・・っ!?まずい、末の姫様がいたのかっ?)
気が付いて固まる兵士を影から面白そうに見ている少女。彼女は今年9つを数える国王様の末娘、第7王女のナナ様です。薄い栗色の背に流れる長い髪、王妃様に良く似たお顔立ちの可愛らしい姫様です。
ナナ様はとことこと兵士に近付くと、首を傾げて“何をしている?”とおっしゃいました。
問われた兵士は困り顔です。幼くとも相手は彼の君主の娘、失礼は許されません。部隊長に叱られる事を承知で、正直に“家族の憩いの場に入りました”と言うべきか?彼女の前で考え込んでしまいます。
ナナ様は冷や汗を流す兵士を見て、とても楽しそうです。勉強のお時間を逃げ出してきたのか、やっと退屈から開放されたとでも言いたげな瞳でした。
「・・・ナナは言い付けぬぞ?正直に申されるがよい。」
水色のシンプルなドレスの腰に手を当てて、少女は得意げに言います。相手が歳上でも自分の方が偉い、ナナ様はご自分のお立場をよく理解されています。
兵士は辺りを見て、勉強係が来ないかと目で探しました。本当は助けてくれる人なら誰でも良かったのですが、今ならナナ様を探しているはずです。必死に背伸びまでしました。
しかし、ナナ様はそれが気に入らない御様子。ぷうっと頬を膨らませ、兵士の前に指を突き出します。
「お前っ!ナナの言う事が分からぬかっ?・・・もうよいっ名乗れっ。」
厳しいナナ様のお言葉に、兵士は幼い少女を前にして敬礼をして見せました。からかいではなく、本気で困っての敬礼です。冷や汗も止まっていません。
「はい!!4番隊見習い兵レグナスっ、只今見回り巡回中でありますっ。」
赤茶の髪と瞳の彼、レグナスのどことなく不慣れな敬礼に、ナナ様は一瞬眉をひそめます。しかし、何を思いついたのかすぐににやりと姫様に有るまじき笑みを浮かべました。“これはいい事な訳がない”。レグナスは内心でひどく焦りました。
「見習い兵じゃと?・・・そうか、ならわらわに逆らえぬな?レグナスっ今からわらわを城の外へ連れてゆけっ!城には飽きたっ!」
「はっ!?無理ですよっ!私の首が飛びますっ。」
「首くらい飛ばせっ!!ナナの命令じゃ!!」
ナナ様はとても難しい事を言い出してしまいました。あまりの事に兵士は敬語を忘れかけています。
見習い兵レグナスはナナ様の命令に従う立場にあります。しかし、今ここで命令に従うと、後からもっとひどい目に遭います。彼の地獄はすぐそこ、目に見えていました。頭を捻りよく考えた結果、レグナスはこの命令には従わず、世話係を探すことにしました。
じりじりと後ずさりを始めた青年兵士に、それを見たナナ様はかんかんです。優しげなライムグリーンの瞳を吊り上げて、可愛らしい桃色の唇を尖らせます。きちんと着ていた見習いの制服を無理に引っ張り、哀れな青年に食い付きました。
「こらレグナスっ!聞こえなかったのか!?わらわを外へ連れてゆけっ!今日だけでいいっ。父上にはわらわから話すからっ罰はないぞっ!?」
「〜〜〜っ!ダメっ嫌ですっ。国王様に知れたら本当に首がっ!!」
「首くらい飛ばせと言ったじゃろうがっ!」
ナナ様は腰に抱き付いて離れません。しかし、無理矢理に引っぺがして怪我でもさせては大変です。どうしたものかと考えて、仕方なくレグナスはナナ様を連れてお城の方へ歩き出しました。
もちろんそれを見て、このナナ様が黙っている訳がありません。お城へ連れ帰ろうとする動きに、少女はまた怒り出してしまいます。ついに泣いてやると言い出したその時・・・。
ようやく騒ぎを聞きつけたのか、四角い眼鏡の老人が何人もの兵士を連れてせかせかとやってきました。尖んがり帽子に藍色のローブ。どうやらナナ様は算術の勉強を抜け出していたようです。
怖い顔の兵士達は、ナナ様を貼り付けたまま敬礼をするレグナスをひどく睨み付けました。罪のない可哀想な見習い兵は、先輩に叱られる事を感じ取り涙目です。
「・・・見習いっ!後でたっぷり床磨きを―――」
「無礼者!ナナの近衛じゃっ黙っておれっ。」
「!?」
突然のお声に、先輩兵士も老人も驚いてしまいました。
見習い兵の腰に貼り付いたまま、ナナ様はレグナスの先輩兵士を怒鳴り付けます。そして、老人に指を突き付けると高いソプラノで、突拍子もない事を命令しました。どうやら、ライムグリーンの瞳は本気のようです。
「よいかっ、ここに居る見習い兵レグナスを今からわらわの世話係の一人とするっ。異論は聞かぬぞっ。」
老人は普段からこの幼い姫様の我儘を聞いていたのでしょうか。驚きに丸くしていた目をキッと吊り上げ、ナナ様の前で膝を折りました。
亀の甲より年の功、今まで何度もこの老人に言いくるめられてきたのでしょう。ナナ様は老人の作戦にはまるまいと睨みを強めます。
「ナナ様に申し上げます。王女様の世話係は女官の務め、この者には勤まりませぬ。」
「姉様の御側付きに何人か居たはずじゃ。それに、レグナスは女顔。女装でもさせればよい。」
「・・・・・・・・・・・・。」
少女は貼り付いたまま老人を見下し、次いで見上げたレグナスにひどい事を言いました。可愛らしい微笑みを前に、叱る事はおろか反論一つ出来ずにレグナスは白くなります。
何かに打ちのめされたように、歳若い見習い兵は斜めに倒れかかり何とか踏みとどまりました。
ナナ様は何も言わない、正確には言えないレグナスに満足したようで、腰から離れると代わりに腕にしがみ付きました。日々の訓練で傷だらけマメだらけの手。少女はそれを大切そうに小さな手で包み込みます。ナナ様に放す気はなさそうです。
「・・・失礼ですが――」
「なら申すなっ。」
ぴしゃりとナナ様。しかし、老人はこれ位ではめげません。
「・・・しかし・・・申しますぞ。あの方々は御側付きではございませぬ。姉姫様方の婿殿、このような見習いの兵士とは違うのです。それに、何故この者を・・・。」
「気に入ったからじゃっ。わらわもそなたに問おうっ、何故これではいけぬのじゃっ?申してみよっ。」
周りの兵士が少しずつ、老人に気を取られている少女に近寄ってきました。見習い兵はナナ様の背に手を当て、自分の前に立たせます。一兵士が王女に触れるなど無礼を通り越す行為でしたが、この際仕方がありません。後ろから小さな肩に手を乗せ、側に居ると思わせながら離れます。一度振り向いた瞳に大丈夫と頷くものの、信じて微笑んだ少女に心が痛みます。
ナナ様は離れてゆくレグナスに気が付きません。“婿ならよいのかっ”と老人に食って掛かっています。
レグナスの傷だらけな手が離れようとした時、彼の先輩が二人の間に割って入り幼い少女を保護しました。驚いたナナ様は怒って兵士のお腹を叩いていたようですが、その力で効果があるはずもなく、ずんずんお城へと連れられてゆきます。高い罵声も聞こえました。
後には数人の兵士が見習い兵の側に残りました。“きっと叱られる”。レグナスはしゅんとうつむいています。その前に立った見覚えのある大柄な上官は、肩に手を置くとパシパシと労うように叩いてくれました。
「・・・シーラの所の見習いだな?よく止めてくれた。ナナ様が急に飛び出されてな、お前が気を利かせてくれて助かった。」
(・・・えっと・・・ただ助けて欲しかっただけなんだけど・・・。)
叱られるとばかり思っていた青年兵士は、はっと顔を上げて驚きます。まぁ、本当のところどうだったか、それはとても口には出せませんでした。
横に立った背が高く細身な他部隊の隊長も、穏やかに微笑んでくれました。レグナスは罰がないと言われほっとしましたが、まだ安心は出来ません。機嫌の良い上官に、正直に巡回中寄り道をしていた事を話します。
素直に話した若い見習い兵に、この各部隊を取りまとめる偉い上官は吹き出しました。
「・・・っくくくっ。そんなこと、黙っておれば気が付かんのになぁ・・・?」
「!?ですがっシーラ隊長は知れれば罰として見習い期間を延ばすとっ。」
必死になりながら見事な墓穴を掘るレグナス。今度はくすくすと笑っていた他部隊の隊長が“お馬鹿さん”と首を傾げて楽しそうに言います。
「シーラは“知れれば”と言ったのだろう?言わなければ“知れない事”で済んだのに。あいつは昔、出来の悪い部下を持った事があったから、すぐにそう脅かすんだ。・・・まぁ言ってしまったからには、ただでは済まないだろうけど。ね?」
獲物を見付けた猫のように、彼は琥珀色の瞳を細めます。意地悪く笑う諸先輩方を前に、見習いは成す術もありませんでした。
結局30分以上の遅刻です。見回り巡回を終わらせ急いで帰りましたが、彼の上司、シーラ部隊長には散々叱られてしまいました。しかし、途中からその場に顔を出したあの偉い上官に“良い見習いだ、可愛がれ”と部下を褒められ、隊長は機嫌を直してくれました。見習い期間はこのまま同じで済みそうです。
しかし、あの上官はレグナスの機転の良さと素直で正直なところを褒めた後、寄り道の件をきちんと話してくれました。何とも公平な上官です。隊長は笑顔で上官をドアまで見送った後、一瞬で無表情になりレグナスに剣の素振りを1000回と長いお堀の周りを10周して来いと言いました。
これから夕方まで、見習い兵には訓練があります。レグナスは他の見習い以上に大変な午後を過ごすことになりました。
「・・・534・・・535・・・536・・・。」
「まだまだだぞぉ〜頑張れぇ〜レグナス〜。」
日の有るうちにお堀を走り、訓練場で素振りをしているうちに日は暮れました。
夕方までの訓練を終え、仲の良い見習い仲間が遊び半分に応援してくれています。“レグナスの寄り道と墓穴、そしてナナ様との奮闘はあっという間に広まった”。広めた本人であろう彼はぺらぺら喋ってくれています。
月は細い三日月形で星が綺麗に輝いていましたが、レグナスに見ている余裕はありませんでした。
「なぁ、ナナ様って遠目に見たことあるけど、近くで見ると可愛かったろ〜?」
「・・・582・・・うん・・・583・・・。」
可愛らしい、その形容以外にあの少女をどう表現すればよいか、見習い兵達には分かりません。しかし、聞きながら可愛いだけではないことを知ってしまったレグナスが、心なしか顔を引きつらせています。そろそろ疲れてきたのだろうと友達は勘違いをして、また楽しそうに話し出しました。
「ナナ様って末の姫様じゃん?この前、歳が離れてて兄弟の中で浮いてるって話し聞いたんだ。唯一正妻の娘だけど女の子だから国を背負う訳じゃないし、頭が良くて手の掛からない姫様に気を遣う人もいなくて、あの子は平気でしょって感じにいつも一人なんだって。可愛いのに勿体ないよなぁ。」
「・・・え?」
素振りの手を止めて振り返るレグナスを、塀の上から友達、ハジメは楽しそうに見下ろします。
(そんな風には見えなかった・・・。)
愛情に甘えた我儘言い放題の王女様、それがナナ様だと勝手に思い込んでいたレグナスは驚きました。“城には飽きた”、それは飽きたとは違うことを言いたかったのでは?今更ながら、ナナ様の必死さを思い返します。
手を止めたままぼんやりしているレグナスに、ハジメはシーラ隊長を真似て激を飛ばしました。
「・・・こらレグナスっ、手が止まっているぞっ!!」
「うわぁっ!?スイマセンっ・・・・・・・・・あ。」
慌てたもののすぐに固まった赤茶色の髪の青年に、ハジメは不思議そうな顔をしました。首を傾げて見ていると、レグナスは困ったような顔で友達を再び振り返ります。
「・・・今、何回目だっけ?」
“忘れた”と照れながら猫っ毛をぎこちなく掻く友達に、ハジメは笑いながら厳しい事を言いました。
「しょ〜がないなぁレグナスはぁ〜。俺が言うのもなんだけど、“ハジメ”っからな?」
長い夜はまだ終わりそうにありません。
数日後、昼前の乗馬の訓練を受けていた時に、レグナスは急な呼び出しをされました。見習い仲間達に“今度は何だ?”とからかわれながら訓練場を後にして、外に出ると赤茶の髪を振って走り出します。
呼ばれた隊長の下へ行くと、今度はいつかの偉い上官に引き渡されてしまいました。“身に覚えはないけれどこれは大事だ”。無表情な隊長の顔を見てレグナスは直感的に感じました。しかし、行きたくありませんとも言えず、大人しく着いてゆきます。
歩けば景色はどんどん変わり、ついには入ったことのないお城の中です。広い廊下の左右には彼が目指す近衛兵の面々がずらりと並び、身動きせずに見習いを睨んでいます。その中を上官に連れられて静かに通り過ぎ、扉がいくつか並ぶ廊へと辿り着きました。
3つ目の扉の前で、偉い上官は表情を和ませるとレグナスの背を押し“中へ入れ”と言いました。もちろんここでも嫌だとは言えず、怖いと思いつつも何が出るか分からない扉に入ることになります。
軽いノックに中から低い声が答えてくれました。
「・・・失礼致します。」
まず目に入ってきたのは、小さなテーブルについてカップを片手に穏やかな笑みを浮かべる男の人。栗色の癖がない髪と、深い緑色の瞳を持った紳士・・・若いレグナスからはおじさんと言える歳の人でした。見たところ、明らかに見習いが会話をするべき相手ではありません。高貴な身分の人、恐らく王族の一人でしょう。
「・・・君がレグナス君だね?忙しいところ呼び出して済まない。」
「いえっ・・・あのぅ、私に何か御用でも・・・?」
恐々敬礼して首を傾けるレグナス。シーラ隊長に見られたら“それが敬礼になるかっ”とまた叱られるでしょう。しかし、この空間を支配する男性はにこやかに“堅いことはしなくていい”と言います。兵士は慣れない礼を止め、気を付けの姿勢で固まります。
「この前はナナが随分な事を言ったそうだが・・・しかし、よく見ると柔らかい顔立ちをしているかな?」
「・・・・・・・・・・・???」
「まぁいい。今日は君に頼みがあって呼んだのだ、少しいいかね?」
「・・・はぁ。」
一人で面白そうに独り言を言いつつ笑う彼に、訳も分からず見習い兵は頷きました。紳士はレグナスを招き寄せると、テーブルに置いてあった大きな書類を指差します。そして“ここにサインをいいかな?”と微笑みます。差し出された羽ペンを受け取り、膝を着いて書類を眺めました。
字を書く事が少ないので少し緊張しますが、レグナスは書けと言われたので大人しく、慣れない手つきで書き始めます。
(・・・ん?あれ?これって何処かで見たような・・・・・・・・!?)
「あぁっこれっ入隊したときと同じ紙っ!」
「クスクス・・・そうだね。似ているね。」
敵でも見付けたように紙を指差す青年。そしてカップを静かに置いて、それを見る紳士。とても楽しそうです。
紳士はテーブルで指を組むと、自分を見るレグナスに目を細めて頷きました。
「これから君に4番隊を異動してもらいたい。こちらの都合で振り回すことになってしまうのだが、城内で私の家族の身を守る役とでも言おうか・・・そちらに就いて欲しいのだ。」
穏やかな紳士の口調には、嫌だと言わせない威厳のようなものがありました。自分の深い翠瞳に魅入っているレグナスに紳士は“いいね?”だけ言い、名前の書かれた書類を手にします。ゆったりと優雅に立ち上がる紳士を目で追いながら、座り込んだ見習いは何も言えませんでした。 紳士はレグナスが入ってきた扉に手を掛けて、ふと何かを思い出したように振り返りました。にっこりと人の好い笑顔で彼はこの部屋にもう一つある扉を指差します。
「そうそうレグナス君、その扉の向こうで君を待っている子がいるのだ。顔を見せてやってくれ。」
「・・・え?待ってる?」
すっかり相手の雰囲気に呑まれた青年は、ドアとドアを交互に、忙しなく赤茶の瞳を動かします。そうしている間に紳士は彼を置いてドアの外へ。置いてきぼりに気が付いたレグナスは、反射的に待っていると言われた方の扉を見つめました。意味もなく睨みます。
よく分かりませんが、自分より遥かに偉いであろう人が“見せてやってくれ”というような人です。彼は恐らく王族、その家族を守る役、そして待っている。このドアの向こうにいるのは自然とレグナスよりも位の高い、王家の人間という事になるでしょう。
ゆっくりと何かを警戒しながら、今や元見習いとなった兵士はドアに近寄ります。そして、ノブに手を掛けそうっと開きます。
小さく“失礼します”と声を掛けると、布の擦れる音が応えてくれました。日があるうちからカーテンの引かれた薄暗い室内に、その人はいらっしゃいました。豪奢な天蓋付きベットで布団に埋もれている、長い薄茶色の髪の幼い少女・・・ナナ様です。
「・・・レグナスか・・・?」
「・・・え?・・・と、はい。」
薄いライムグリーンの瞳は安心したように閉じられ、軽く溜息が聞こえます。ドアの前で立ち尽くす青年を、少女は声だけで側へ呼びました。レグナスはゆっくりとベットに近付き驚きます。枕元のテーブルにはトレーが置いてありました。しかし、乗せられている食事には、どれも少しも手が付いていません。
ナナ様はレグナスの赤茶色の瞳を見ると、嬉しそうに微笑みました。
「レグナス、わらわの言う事を聞かぬから4番隊とやらをクビにしてやったぞ。」
「・・・ナナ様、これ食べてないんですか?・・・すごく痩せて・・・。」
膝立ちになり自分を心配そうに覗き込む青年に、少女は“食べなかった”と明るく言います。たった2,3日前はふっくらと柔らかだった頬が、今は痩せて色もなくしています。この様子だと、あの後から何も食べていなかったとでも言い出しそうです。
レグナスは相手が王女であることを忘れたように、急に機嫌悪くナナ様を叱り始めました。“体に悪い事くらい分かるのに何故!?”。ナナ様はそうやって食事の大切さやら、食べ物の有難さやら、作る人の苦労やらを語り始めた青年を愛しそうに見ています。
「・・・こうでもせねば、周りの者が認めてくれなかった。言葉で自分の選んだ者を側に置きたいと言っても、聞いてはもらえなかった。」
唐突な少女の言葉に、レグナスは黙り込みます。
「・・・レグナス、寂しかったのじゃ。正妻でありながら、男子の子を持たぬ母上は肩身の狭い思いをしていた。だからわらわは演じていたのじゃ。ずっと賢く物分りが良い娘だと思われていた。・・・しかし、そのせいで実際のわらわに誰一人気付いてくれなくなってな。皆、政権に関係のない大人しい娘を構ったりはしてくれぬし、そのくせ、政に関わらぬというのに自由を与えようとはしない。見知る大人はわらわを王女として扱い親身にはなってくれぬ。・・・辛かった。」
幼い少女の悩みは大きいものでした。しかし、ナナ様は“あの時偶然に見掛けた兵士が妙に気になった。巻き込んでやろうと思った”と笑います。そして、力なく起き上がろうとするのをレグナスに支えられ、手に取ったカップから美味しそうにスープを飲んで見せます。
断食という抗議を終わらせ、食事をいとも簡単に再開した少女に安心したようです。青年は床に座り込んで溜息を吐きました。上からの笑い声に顔を上げれば、ナナ様が望んだものを手に入れた喜びに、“満足だ”と小馬鹿にした笑みを浮かべています。
「・・・唯一本当のわらわを想ってくれている父上が、この我儘を聞いてくれたのじゃ。初めての我儘にしてはひどかったようで、皆慌ててな。世話係はおろか母上の言う事も聞かず、もう3日間食べずにいたから、遂には父上が会いに来る大事になってしまった。」
くすくすと小さく笑う少女に、レグナスは内心“やっぱり我儘で違いなかった”と妙な安心感に浸っていました。溜め込んだ不満が爆発したにしては小さく静かにも感じられますが、執務に忙しい国王様をたかが我儘一つで捕まえたのです。立派な我儘娘でしょう。
スープカップを受け取り、換わりにフルーツでもと差し出すと、ナナ様は“メロンは好かぬ、お前が食べておけ”とおっしゃります。そして自分でサラダを手にすると美味しそうに食べ始めました。
“食べておけ”と言われても困ります。レグナスはメロンの皿をトレーに戻し、これからどうしたものかと考えました。
レグナスが目指すのは、世話係でも御側付きの召し使いでもありません。近衛兵に憧れる自分の夢はここで終わるのか。がっかりしたようにしゅんとする青年に、ナナ様は“どうした?”と可愛らしく首を傾げます。
「・・・俺、ナナ様の御側付きになるんですか?」
「?・・・ナナは近衛にすると言わなかったか?世話係の一人の近衛兵じゃが、見習い程度の力では困るぞ。しっかり鍛錬して、いざという時わらわの身を守るのじゃ。よいな?」
上から偉そうに言う少女。その言葉にレグナスはきょとんと目を丸くします。
“城内で私の家族の身を守る役とでも言おうか・・・”。紳士のあの奇妙な間。ようは“世話係兼近衛”の肩書きで、枠に囚われず我儘娘にあちこち連れ回されろ。そして、様々な雑用をやれという事なのでしょう。彼は青年の夢をそのままに、少女の我儘にも応えようというのです。
丸く驚いている赤茶色の瞳をおかしそうに覗き込み、ナナ様はレタスを口にします。もぐもぐと食べ終わると、桃色の愛らしい唇は笑みの形になりました。
「レグナス、案ずるな。父上はあまり会えぬがとても立派で話の分かる方じゃ。お前が近衛を目指している旨をシーラという者から聞いて、それを歪めぬよう計らって下さった。・・・わらわが勉学に励む事を条件に父上は聞いて下さったのだが、恐らくその間にお前は訓練を積む事になろう。何もない時間だけ、わらわの相手として世話係になるのだ。」
幼い小さな手でよしよしと頭を撫でられ、青年は“あぁ、なるほど”と手を打ちました。そして、少し考える素振りを見せます。
何度か頷き一人で納得したレグナスは、ゆっくりと立ち上がりベットに座る少女にぎこちない敬礼をして見せました。ナナ様は“下手じゃ”と言いつつ、レグナスが何を言うか興味津々です。
「ナナ様っ。」
「何じゃ?」
「選ばれたからには、立派な近衛になって必ずナナ様をお守りします。・・・寂しくもさせません。」
少し照れたような青年の宣言に、少女は満足げに頷きました。そしておっしゃいます、“それならまず命令じゃ、メロンを完食せよ”と。
これからレグナスはそんなナナ様の側で過ごすことになります。少しの不安を抱えつつ、青年はメロンを手に取り食べ始めました。横でそれを見る少女はとても嬉しそうです。
「大切な部下を取られたな。」
「構う事か。手の掛かる奴が一人減っただけだ。」
「お前にしては珍しいくらい可愛がっていたのに?・・・寂しいんだろう?この前会ったけど、素直で馬鹿正直で、からかい甲斐のある奴だったよ。」
背が高く細身な青年が、脇の椅子で書類に目を通す同僚にカップを差し出しています。昨日、担当していた見習い兵を急な事情で外へ出した彼、シーラは機嫌があまりよろしくない御様子。無理に構おうとする3番隊隊長ティアを睨み付けると“あれはもう関係ない。帰って仕事をしろ”と低く唸ります。ティアは大して気にした風もなくカップを置くと、シーラの手からレグナスの異動届けを取り上げました。
彼らの君主である国王様の命令でした。“娘の一人にこの青年を付けたい”、急な話に驚きがないはずはありません。レグナスは見習いの中でも特に筋がよく、それでいて正直過ぎると同時にどこか不器用な若者でした。普段から他の見習いに対するより、言葉も行動も厳しくなっていましたが、決していじめたかった訳ではありません。シーラは教えれば教える程、砂が水を吸うように上達する彼が楽しくて、また可愛くて仕方がなかったのです。
レグナスからすれば、シーラは“よく怒る怖い上司”なのでしょう。しかし、周りの隊長達からすれば、レグナスは“いつになくシーラが可愛がっている部下”でした。それを取り上げられて、この誰にでも手厳しい彼が多少へこんでいるのではないか?ティアは少しの心配とそれに反する大きな好奇心に動かされ、様子を見に来ていました。
結果はティアが思っていた通り。昨日レグナスが連れられて行ってから、彼は他の見習いや隊員に当たっていたようです。今も見習い兵達はお城の長いお堀をぐるぐると、いつもより長めに走っています。普段レグナスに与えていた罰と同じくらいでしょうか。皆、疲れに足が上がっていません。
「・・・そうだ、お前に朗報があるんだった。」
ワザとらしく思い出した素振りを見せるティアに、見事な金髪を振ったシーラは機嫌悪く“何だ?”と問います。高い長身を軽く屈め、長い琥珀色の髪を掻き揚げると、彼は自分を睨み付けてくる同僚の瞳を楽しそうに覗き込みます。
「あの見習いは第7王女、ナナ様のところで“世話係兼近衛”になるそうだよ。王女様が修学している時間は、まだ近衛になるため訓練が必要で・・・。」
唐突にティアは言葉を切りました。そしてシーラが眉をひそ顰める中、彼は目を細めドアを嬉しそうに見つめます。
かすかに足音が聞こえました。それは次第に大きくなり、彼らのいる部屋の前で止まります。こんこんと丁寧なノック、そしてシーラの返事に合わせてドアが勢い良く開きました。
「・・・シーラ隊長っ、俺異動したんですけどっ・・・あ゛。」
「――っレグナスっ!“失礼します”は何処へやったっ!?やり直せっ!!」
「うあっ、はいっっ!!」
いつも通り、いえもっと派手な大声で怒鳴られ、勢い良く飛び込んできた青年はドアの外へと逃げ出しました。それを怒鳴り付けた本人の横で見ながら、ティアはくすくすと笑いを堪えます。気付いたシーラにまた睨まれてしまいました。
“噂をすれば影”とはよく言ったものです。異動して間もないレグナスは、ナナ様からお暇を頂く形で舞い戻ってきました。もう一度ノックをして、許可を得た青年は恐々入ってきます。その赤茶の瞳はまだ睨んでいるシーラの海色の瞳を見て、追い返されはしないかと不安そうに揺れます。そして次に、ネズミをいたぶる猫のような、色が薄いティアの瞳を見て意味も無く怯えだしました。
気を付けの姿勢で固まった青年は、かつての上司に恐る恐る事情を話します。シーラはそれを黙って聞きました。ティアも口を笑みの形にしたままで、静かに耳を澄ませています。レグナスは青色の瞳とあまり目を合わせません。しかし、普段ならそれを叱るシーラが静かです。
“ナナ様専門の近衛になるため、自分はもっと訓練を積まなくてはならない。そのためにもう一度、シーラの手に掛かりたい”。そのことを話し終わると、レグナスはシーラの言葉を待ちました。この元上司は面倒を見てくれるだろうか。床ばかり見つめる青年の耳に、小さく溜息が聞こえました。
「・・・確かに、今のお前には王女様の側を任せる事は出来んな。」
椅子の背もたれに寄りかかり、シーラは睨むのをやめました。そして、厳しい事で有名な4番隊隊長は珍しく柔らかな微笑みを見せます。・・・横でそれを見たティアが目を丸くしています。そして、微笑を向けられているレグナスも顎が外れてしまいます。しかしシーラは気に留めません。
「いいだろう。自分で納得するまでここにいるといい。・・・ただし。」
元上司は春の陽気さえ感じさせる暖かな海色の瞳を、一瞬で極寒の冬の海色へと変えて見せます。見慣れたシーラも目に安堵する間もなく、レグナスは廊下へと叩き出されました。
改めて青年を担当することになった金髪碧眼の隊長は、ドアの前に立つと冷ややかにレグナスを見やります。そして、固まる部下を怒鳴り付けました。
「私の元にいる限り、生半端な扱いはしないっ!厳しい訓練を受けることになるぞっ、覚悟しろっ!!」
「はっはいっ!!」
レグナスは昨日と変わりない声に首を引っ込めますが、“外堀10周っ、走って来いっ”と言われすぐに駆け出します。一瞬見えた彼の横顔は、“怖い父親が構ってくれた”とでもいうような、どこか嬉しそうなものでした。赤茶の猫っ毛をなびかせながら、近衛になるには頼りない背が遠ざかって行きます。
廊下にまで出てそれを見送ると、ティアはきらりと琥珀色の瞳を輝かせました。ほんの少し目下にある同僚にその笑みを向けます。
「良かったじゃないか。彼が帰ってきて。」
「・・・帰ってきた訳ではない、ナナ様から預かっただけだ。」
一瞬でいつもの“怖い隊長”に戻ったシーラ。彼はティアの嬉しげな瞳を睨み付け、さっさと部屋へ戻ってしまいます。その普段と変わりない雰囲気に安心したように、長い髪を揺らし“そう?じゃあそろそろ帰ろうかな”とティアは首を傾げました。おどけて見せた同僚に、シーラは何も言いません。ただ、背を向けたまま彼は静かに微笑みました。
「・・・ほぉら、嬉しいんだ。」
「――五月蝿いっ。」
いつの間にやら回り込んで、下から覗き込むティアにシーラは顔を赤くして怒鳴りました。しかしティアの笑みがその程度で消える訳もなく、その後数日の間、彼は同僚達にからかわれる事になりました。
藍色ローブの老人の退屈な話に耳を傾けながら、薄い栗色の長い髪を背に流した少女は窓の外を眺めていました。彼女のライムグリーンの瞳が追っているのは、先ほどからお城の周りを走っている見習い兵達でした。一人遅れてきた赤茶の髪の青年は、仲間に小突かれながら遅れを取り戻そうと先を行きます。さらに、窓の外遠くに見習いとその他、訓練している兵士に激を飛ばす声が聞こえます。
(・・・うまくシーラとやらの元へ落ち着けたようじゃな。)
必死な彼の姿に満足したようです。微笑んだナナ様は長々と文字の綴られた本へと目を戻し、そのまま手中の羽ペンを弄び始めました。それに気が付いた老人は、四角い眼鏡をきらりと光らせます。
「・・・ナナ様。この問題は解けましたかな?」
「わらわを誰だと思っておる?とっくじゃ。」
小馬鹿にした笑みを浮かべるナナ様。額に皺を寄せて老人は答えを聞きます。そして、唸りました。
「どうじゃ?何も申せまい。」
少女の勝利を確信した声に、老人は何も言えませんでした。ナナ様はとても有能な頭脳をお持ちです。
いつになく厳しい訓練を終え、レグナスが急いで向かった場所。ナナ様がお勉強をしていらっしゃる部屋へ行くと、そこでは四角い眼鏡の老人と幼い少女が、何故かチェス盤を前に睨み合っていました。片や余裕の笑み、片や呆然とした表情。余裕を見せていた少女は青年が来たことにすぐ気が付き、老人を置いて駆け寄ってきます。そして、マメの増えた手を掴み嬉しそうに笑います。細められたライムグリーンの瞳は緩く弧を描きました。
「待っていたぞ。今日は退屈過ぎて、途中からチェスをやっていたのじゃ。見よっ、わらわの完全なる勝利をっ。」
ナナ様は小さな手で盤を指差し、どうだっとばかりに胸を張ります。青年はチェスの経験がないので、今ひとつ彼女の強さが分かりませんでした。しかし、老人の落ち込みを見る限り相当のものなのでしょう。彼は意味もなく“はぁ”とだけ返します。
それを聞いて、勝負はついたとナナ様は部屋から青年を連れ出します。お勉強の時間は過ぎていたので老人も文句なく、戸まで見送ってくれました。
軽い足取りで少女は外のお庭へ向かいます。今日は瞳に合わせられたグリーンのドレスをお召しのナナ様。ひらりひらりと裾を広げ、階段を下りてゆきました。青年は特に逆らう必要もないので、されるがまま少女に手を引かれて歩きます。ナナ様は入り組んだ城内を迷うことなく進み、レグナスを広いお庭へと連れ出しました。
ひらけた大きな青空が見える、レグナスがいつも見回りのために歩いていたお庭です。国王様とその家族の憩いの場。大きな池の畔で、ナナ様は青年を振り返りました。
「レグナス、今日はこれから城を案内してやる。まずはわらわが気に入っている場所を教えてやろう。よいな?」
「・・・はい。分かりました。」
楽しそうにくすくす笑うナナ様に、レグナスは素直にコクリと頷きます。
「・・・ここじゃ。」
ナナ様が動かず指差した先。そこは例の大理石のベンチがある建物です。少女は訳が分からず首を傾げた青年の腰に飛び付きます。そして、頬を摺り寄せて嬉しそうに笑いました。
「お前を見つけた場所じゃ。とても気に入っている。・・・レグナス。」
「・・・?」
「大好きじゃ。」
少女の突然の告白に、青年は呆然と何も言えなくなります。ナナ様は気にせず背伸びをして、高い位置にある柔らかな赤茶の猫っ毛を撫でました。そして、そのままレグナスの頬に触れます。
「聞こえなかったか?・・・ならば、わらわは何度でも言うぞ。」
上を、レグナスの瞳を見上げ、ライムグリーンの瞳は幸せそうに細められました。レグナスもようやく頭で理解できたようです。照れくさそうに、はにかんだ笑みを見せました。
「レグナス、お前の事が大好きじゃ。偽りない。会えてよかった。」
「・・・はい。俺も・・・ナナ様の事、大好きですよ。」
それは何よりも素直な言葉でした。
この後、レグナスはシーラ隊長や諸先輩方の指導を受け、立派に成長を遂げました。国一とまで言われる剣の腕を手に入れ、その働きも高く評価されました。一個人に付けておくのは勿体ないとさえ言われましたが、彼は一人の王女様のためだけに尽くしたそうです。
一方ナナ様は、関わることはないと言われた政に参加するようになられました。その有能さは、国の財政を支える大きな柱となっています。美しく成長されたナナ様には多くの求婚者もいたそうですが、それらはことごとく本人によって切り捨てられたという事です。
―――この国には国を、家族を、民をとても愛する国王様がいらっしゃいました。
美しい王妃様方と12人の王子様、7人の王女様は毎日を優雅に御過しです。
・・・そう、これはとある国の近衛兵と幼い姫君のお話。
―終―
ネタバレ有りの人物紹介