あの日、見たもの

あお著

 小さい頃は、通常ではありえない、いろんなものが見えたりする。たとえば、座敷童だったり幽霊だったり……。
 それは大人の目が養われるに連れ、いつしか見えなくなってしまう。記憶は薄れ、いつの間にかあの日見たことは全て夢だったと頭で中で処理してしまう日が訪れる。
 俺もそんな類の大人になった。
 でも、ある日突然、なにかのきっかけに記憶が鮮やかに蘇えってくるということもある。
 今回俺が語るのも、そんな類の話だ。

 俺の両親はむかしっから共働きで、家にいないことの方が多かった。だから、子供時代のほとんどを父の実家のばあちゃんちで過ごし、父母の誰よりもばあちゃんに懐いていた。
 けれどある夏の暮れ、ばあちゃんが亡くなってしまった。
 俺はそのとき、まだ中学生にもなっていなくて、誰かにまだ甘えたい時期だった。しかし、その愛してくれる相手を失ったのだ。
 お葬式を滞りなく済ませると、両親は再びいつもの日常に戻っていった。
 俺ひとりを置いて。

 秋になると旧家だったばあちゃんの家は売り払われることになった。
 十二月には新しい家の骨組みが出来ていた。
 その頃の俺はというと、その前を通る度に意味もなく走って逃げていた。暗い窓を見る度に、自分の居場所が狭まられていくような感じがしたのだ。
 ちょうどその頃よく見た夢は、真っ暗な闇の世界に細い岩の道が浮きだっているというものだった。それが端からだんだん崩れていくのだ。その上をちょうど俺が映画の主人公みたく走って逃げる。けれど映画の主人公みたく格好よく逃げられた試しなど一度もなかった。

 二学期最後のクリスマスイブの日。学校から帰ると、珍しく両親が家にいた。
「どうしたの? こんなに早く」
 そう聞きながらも、俺のために二人が早く帰ってきてくれたのだろうことは予想がついた。せっかくのクリスマスイブだったし、それしか理由が思いつかなかったのだ。だから次の両親の言葉はあまりにも信じられなかった。
 それは両親の離婚の話だった。
 それを聞いた途端、俺は家を飛び出した。
 胸が苦しくなるのを感じながらも、足を止めることが出来ない。後ろから道が崩れてきていて、落ちたら底のない奈落へと落ちてしまう。俺は追いやられるように走った。
 胸が締め付けられ、これ以上走れないというときになって、やっと立ち止まることが出来た。特に宛があって走っていたわけじゃない。けれど、気が付くとそこは、ばあちゃんの家の前だった。正確には「元」が付く。
 薄ら幕の張られた中はまだ各部屋を仕切る壁が出来た程度で窓もなければドアもない。おまけに工事の人もいないものだから自由に出入りすることが出来た。
 背中に掻いた汗が冷えて身震いした。日が暮れ始めた頃、初めはこのままじゃ凍死するんじゃないかと思ったけど、ある限界値を超えるとそんお寒ささえ感じなくなった。寒いというより、皮膚がピリピリ痛いのだ。
 飛び出してきたせいでジャンパーもない中、俺は建て掛けの家の中で震えていた。
 だからって帰る気なんてさらさらない。このまま死んでやるとさえ思っていた。
「そこで死んでしまっては、ご祖母が悲しむでござるよ」
 不意に声が掛かり、跳ね上がった。
 まさか、工事の人?
 暗闇に目を凝らしてあたりを見渡す。けれどどこにもそれらしき影はなかった。
「ここでござる」
 言われて斜め右を見る。
 そこに一人の男の人が立っていた。
 確かにそこは俺がさっき目で確認した場所だったのに……。
 その男は闇に紛れてしまいそうな黒塗りのマントで顔から下をすっぽりと蔽っていた。これのおかげで見逃してしまったのだろうか。
 男が一歩前に出た。吹きさらしの窓から月光が降り注ぎ、顔を淡く照らし出す。深い皺の刻まれた柔和な顔立ち。少し日本人離れした風があった。
「誰?」
 俺は鋭く尋ねた。格好からして確実に工事の人じゃない。俺もあまり人のことを言えた義理じゃなかったけど、俺はついこの間までここに建っていた家に出入りしていたのだ。俺の方に少しぐらい有利なところがあってもいいじゃないか、と思った。
「拙者、魔王でござる」
「はぁ?」
「今宵は貴殿の魂を譲っていただこうと、こうして馳せ参じた。ただとは言わぬよ」
 明治もとっくに過ぎたこのご時世に、自分のことを拙者と呼び、ござる口調で話す。おまけに魂を譲ってもらいに来たとは。
 どこまでも頭のおかしな人だと思った。
「つまり、俺を迎えに来たんだ」
 俺の嘲った言い方にも、この自称、魔王は決して怒ることはしなかった。かえって大真面目に否定してくる。
「魂を運ぶのは死神の仕事。拙者は魂を喰らう者でござるよ。神ではござらん。似ているようで、相反する者でござる」
 子供相手に、ここまで真面目に冗談を言う奴も初めて見た。むしろ、俺が子供だからこそ、こうやってからかっているのか。そう思った途端、余計に腹が立ってきた。
 あの頃の俺はばあちゃんが死んでとにかく孤独だった。その孤独に耐えることが大人になった証なのだと思い込んでいた。
 だから何も事情の知らない大人が、俺の築いたプライドを馬鹿にするのがどうしても許せなかった。どうせならそれを逆手に取って、出てきたボロを突付いてやろうとさえ思っていた。
「じゃあさ、俺の魂も喰らうわけ?」
「左様。お主が拙者と契約すればの話でござるがな」
「さっきただじゃないって言ってたけど、俺にも何か特典があるんだ?」
「むろん、そのための契約でござる。その魂に見合うだけの願いごとを叶えるでござるよ」
「でも、死んじゃっちゃ意味なくなるじゃん」
「そのための後払いも可能でござる。一時間後でも、十年後でも。むろん、その間の利子も頂くでござるがな。その場合、元の魂から利子を差し引いた分の価値しか願いを叶えられないでござる」
「ふ〜ん、俺をからかうための即席アイディアにしては結構できてる方じゃないの」
「いや、決してからかいや冷やかしなどではござらぬよ」
 この男はどこまでも真面目に答えてくる。
 ――あーあ、せっかくのクリスマスなのに、迎えに来たのがサンタじゃなくてサタンクロースかぁ。
「願いとあらば、サンタに化けることも可能でござる」
 俺はビクッと飛び上がった。今のは声に出してないつもりだったのに……。もしかしていつのまにか独り言を?
「いやいや、確かに先ほどの声はおぬしの心の中に収まったままでござったよ」
 見ると魔王は顔にほのかな笑みを湛えていた。
「では何故と? 決まりきったことを。拙者は魔王でござるよ。魔王はこれぐらい訳ないでござる」
「じゃあ、本当に……」
「拙者、嘘は言わぬ」
 ただの白髪の生えた爺さんにしか見えていなかったのに、そう言われると、途端に魔王っぽく思えてきた。
「じゃあじゃあ、人を蘇えらすことも?」
「可能でござる。ただ、おぬし一人の魂では到底足りるものではござらぬが……」
「じゃあどうすれば?」
「この魂も使うでござるよ」
 そう言ってマントの中から取り出したのは、白く淡く光る、野球ボールほどの球体だった。
「そ、それは……」
 聞くまでもなかった。見た瞬間、すぐに誰だか分かった。まるで目の前にその人物が現われたかのように、淡く発光する球体にその人物面影を見たのだ。
「抱いてみるでござるか」
 魔王が差し出した手を引くと、白い塊はふよふよと俺のところまで漂ってきた。俺はそれを両手で包み込むように、体の中に抱き入れた。
 あたたかい。凍えたからだが芯から溶けていくようだ。
「その魂はおぬしのことを心配してずっとここに漂っていたでござるよ。おぬしのためならその魂、使ってもよいと言っている」
 魔王のそんな説明も全く耳に入ってい来なかった。あたたかくて、懐かしくて、涙がポロポロこぼれた。
「……おばあちゃん」
 それからどれだけの時間が経ったのか、俺は魔王に声を掛けられるまで、ずっと祖母の魂を抱いていた。
「そろそろ決断するでござる。その魂と共に願いを叶えるか。またはその魂を放し、転生の準備をさせるか」
「……このままずっと一緒にいることは出来ないの?」
「それはならぬ」
 魔王ははっきりと言い切った。
「この魂がここにこうして形を保てていられるのも全て拙者の力があってこそ。普段のおぬしなら見えも触れもしないはず。そのままというわけにはいかぬでござるよ」
 手放したくない。せっかく逢えたのだ。もう放したくない。俺は白い塊を壊れるのではというほど強く強く抱き締めた。見下ろしている魔王の目線がどんなものかは予想がついた。――きっとぼくをけなしてる。
 そのとき、誰かの声を聞いた。
 先ほど、魔王が俺の心の声を読んでいたけど、もしも俺にそんな力があったなら、あの感じはまさにそれだった。
 それが誰であるかなんて、聞くだけ野暮だ。
 その声はここに二度と戻ってきてはいけないと言っていた。けれど、そんなの頷けるはずがない。いやいやと首を振るう俺に、その声は「それじゃあね」と言ってきた。
 ばあちゃんが生きていた頃、両親の迎えが遅くてよく愚図っていた俺に、祖母は気を紛らわすため、必ずといっていいほど「それじゃあね」と言っていた。その後には必ず、飴などのちょっとした菓子をくれるのだ。
 けれど、今のばあちゃんには飴を上げることなど出来ない。その代わりにとでも言うように、その声は俺に「お願い」をしてきた。
 飴をくれるときと変わらない、諭すような口調で。

「決めました」
 顔を上げると、俺は魔王と向き合った。初め柔和な顔と印象受けた雰囲気は、もうどこにも感じられない。
「この魂を自由にさせてあげてください。俺の魂はあげられません」
「よいのでござるか。見えなくても、魂はいつでもおぬしと共にあるなどと、偽善は言わぬよ」
「いいんです! 形だけが全てじゃない」
 キッパリ言い切ると、魔王は承知したと一言頷いた。淡い光が再び宙を漂い魔王の手の中に納まった。魔王はそれをマントの中にしまい込む。
「この魂は拙者が責任を持って届けよう」
「……どこに?」
「おぬしらで言う天国でござるよ」
 魔王は再び柔らかい笑顔を浮かべると、闇に溶け込むよう消えていった。

 あれから俺は母に引き取られ、一度もあのばあちゃんちに行っていない。夢の中で祖母に会うということもなかった。
 そのまま俺は大人になり、あの日のことが全て夢だったのか現実だったのか曖昧で分からなくなる歳になった。
 そんなある日、俺は確かに見た。夢でもない。幻でもない。たとえ皆に見えなくても、その影は確かにあった。
 電車のホームに、人ごみに紛れながら佇む一人の男性。背広を着ながらも、目が沈みがちでなんとなく影が薄い。その隣に、あの頃と変わらない顔付きで、同じ黒塗りのマントを羽織った、そう、たしかに魔王がそこにいた。



Afterwards

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