Afterwards
妖し影は今宵もまた小悪魔泣かせ
照らし出された街灯の下を一人の少年が駆けて行く。
魔王はそれを見えなくなるまで見送った。
あの少年に言った天国など有りはしない。ただ皆等しく次に生まれ変わる準備をするのだ。だからって、あの少年に全くの嘘を吐いたというつもりもなかった。
人間の中には生まれ変わること出来ない魂もある。いや、正確には転生出来ないのではない。転生しないことを生きている間に選ぶのだ。そこには様々な事情がある。憎悪に満ちた選択もあれば、誰かのために、他に道を失くしてという場合もある。どちらにしろ、自分らはそこに付込んでいくのだ。
つい先ほど走り去った少年も、まさに道に踏み外そうとしていた。しかし、きっともう大丈夫だろう。
黒い影に微かな笑みが浮かんだ。ちょうどそのとき、黒い小さな影がぶつかるのではという勢いで飛び込んできた。
「魔王様魔王様魔王様魔王様」
今宵のこの仕事を任されていたハズの小悪魔、フィクだ。
「魔王様〜!」
けれど、ぶつかるという直前で体は急停止した。顔の前で姿勢を正す。よほど急いできたのか、息は弾み、コウモリ羽がへたっている。
体長およそ十五センチのその体を、休ませようと腕を差し出した。だが、フィクがそれを固く拒んだ。恐れ多いということらしい。別にそのような気遣いはいらないのに、大抵の小悪魔はこうやって遠慮してくる。
「それより魔王様! どうして今宵のこの仕事にわたくしめにお任せくださらなかったのですか! そんなにわたくしが信用置けませんか! しかも、後から追いつかれないよう、黒紙までお持ち出しになられて!」
そのくせこうやって泣いて迫ってくるのだ。いじけているとかの程度ではない。本泣きだ。
通常、魂を集めるのが小悪魔たちの仕事である。上から配られる指令書、黒い紙に書かかれているので通称・黒紙と呼ばれるそれを元に、割り当てられたの人間の元に向かい、魂の交渉をしてくるのだ。うまくいけば魂を持ち帰り、魔王を頂点にする悪魔たちに捧げられる。魂が後払いの長期に渡る場合、その間、ずっと人間に付くのも小悪魔の仕事だ。
もちろん、魔界の王、魔王が自ら魂の交渉に来るなど、普通ではありえない、あるはずのないことだった。それなのに……、
「おお、泣くなでござるよ。むろん、フィクのことは信用しているでござるよ。けれど、今日はそれ以上に、大切な約束を交わしていたでござる」
「大切って、あの人間の餓鬼のことですか!」
「そうではござらん。この魂のことでござるよ」
そう言って、マントの中から再び魂を取り出した。フィクが声にならない歓喜の声を上げる。
「おぉっ! さすが魔王様。ではでは、たった一晩にもならないうちに魂を手に入れられたのですね!」
「そうではござらぬ。この魂はこの世の縛りから開放され、これから転生の準備に取り掛かるでござるよ」
「えぇっ!! そんなっ!」
大きな声と共に驚きを隠せないフィクに、魔王はその背を摘んだ。先ほどから浮き沈みの激しい羽ばたき方が気になって仕方ないのだ。
慌てるフィクを魔王は自らの肩へと乗せた。
「この魂との約束でござったから、どうしてもあの子の魂を奪うわけにはいかなかったでござるよ」
「たかだか人間の魂風情が、魔王様となんと恐れ多い契約を!」
「契約ではござらん。ただの約束でござる」
さらに驚愕の奇声を上げるフィクを尻目に、魔王は片手を高々と夜空へ押し出した。魂は少しの間魔王の頭の上を飛んでいたが、そのうちふよふよと天へと昇っていった。
「あ……あ……もったいない」
「契約してない魂を無理に連れ帰れば拙者とてただでは済まぬよ。まして小悪魔時分のそちとなれば……」
「分かっております。けれどなぜ魔王様は……」
あのように人間の魂などをお気にかけるので?
フィクは言いかけて止めた。たかだか小悪魔風情の己がこの様なことを聞くなど恐れ多いことだった。
ただ、はっきりしているのは、この肩に乗せてもらっている王が歴代の魔王の中でも一番の小悪魔泣かせと呼ばれていて、フィクもまたその犠牲者になったということだけだ。
時々こうして小悪魔に通達されるはずの黒紙を奪っては、魔王は現世(うつしよ)に下っている。その奇怪な行動は、現世風に「そのうち人間どもと並んであちらに骨を埋める気だろう」とまで言われている。もちろんそんなことを言うのは最下層のフィクたちではない。空きあらば、と魔王の座を狙っている上層の者たちだ。そんな噂がフィクたちの下にも伝わってくる。
生まれながらに魔王に絶対の忠誠を誓っているフィクとしては、それが面白くない。だからといって、それを取り締まる力もない。
出来れば魔王様に行動を改めてもらって、そんな陰口など二度と叩かれないようにしてもらいたい。だが、それもまた、フィクの口出しできる範疇ではなかった。
ほんのり光る魂を目で追いながら、今宵失敗した魂集めにフィクはただひっそりと涙を流すしかなかった。
終