薄暗い公園の林。細い木の下に小さな子猫が転がっていました。通りかかる人が気にも留めないソレは、小雨に打たれて霞んでいます。
やがて、小さな子猫は消しゴムに消される絵のように、溶けて消えました。



 ―― 幸せを呼ぶ子猫 ――

しば著


とある街の話です。レンガ造りの家々が立ち並び、石畳には荷馬車が走る、決して大きくはないけれど穏やかな街。そこに貧しい絵描きの青年が住んでいました。
小さな教会の屋根裏を借りて日々を過ごす彼、名前はロリスといいます。薄く褪せた紅茶色の髪と瞳を持った、大人びた顔立ちの青年です。
彼は豊かな絵の才能を持っていて、その絵には見た人々を優しく癒す力がありました。しかし、世界は名前ばかりを優先し、個人の能力は見てくれません。無名の青年は表の世界で認められていませんでした。
画才を発揮する場を持たない若い絵描きは、絵を描くだけでは生きてゆけません。日雇いの仕事で、わずかなお金を稼ぎ暮らしています。そして合間を見付け、少しずつ絵を描き溜めては街の画廊に持ち込んでいました。
彼はよく狭い屋根裏から空を見上げます。いつか自分の絵が認められるように、この絵で誰かを幸せに出来るようにと、毎日毎日願って暮らしていました。



ある年の秋、彼の貧しい生活はさらにその厳しさを増していました。夏が涼しく、雨があまりにも多かった年。恵みであるはずの雨は、人々から糧を奪い、希望を洗い流してしまいました。街も人の心も荒れ果て、穏やかだった街は影もありません。
やりたいはずの仕事もなく、ロリスはまともな食事もままならない日々を続けています。そして、ついにこの日は欠片のパンも口に出来ませんでした。
彼は空腹を紛らわそうと最後に残っていた紙を手に取りました。そこに昔近所で可愛がっていた子猫の絵を描いてゆきます。良いこと、悪いこと。何かあるごとに子猫の元へ走り、話を聞かせていました。もう会うことの出来ない、その子猫に話をしたい。昔の姿を思い出しながら手は動きます。
そうして数分も経てば、彼の手の中には可愛らしい猫の絵が現れました。三角の耳、長いしっぽ。小さな体は大きな白い紙の中でお座りをしています。短い鉛筆で器用に描かれた子猫はとても優しげで、触ればふわふわとしていそうでした。
子猫を見たロリスは満足そうに頷くと、それを部屋の壁の真ん中に立てかけてやりました。昼間は一番光が入る明るい場所。子猫が日向ぼっこをするには最適でしょう。
少しの間、彼はじっと子猫を見つめていました。穏やかだった紅茶の瞳は時間が経つにつれ光を失っていきます。最後には暗く、絶望とも呼べるものを浮かべていました。
部屋を照らすものがない暗い部屋で、ロリスは自分の置かれた世界を静かに憎みます。どれだけ努力をしても何も変わらない。必死になっても報われない。見放され、たとえ神を恨んだとしてもこの死に近い生活は同じなのでしょうか。
絵描きはお腹を空かせたまま、絵の前で眠ってしまいました。体を丸めても寒いほどの部屋。慈悲もなく冷たい月明かりが射していました。



次の日。建物の隙間を縫うようにして、屋根裏部屋にも朝日が届きました。
暗い夜から目覚めたロリスは一つ伸びをします。次に紅茶色の髪を軽くすいて、ふとその手を止めました。
彼は目の前のものに驚きます。ロリスがうつ伏せていた粗末なマットの上にはパンが一切れと、数枚の白い紙が置かれていました。
誰も来ないような狭い屋根裏部屋に何故こんなものがあるのか。不思議、奇妙。ですが、空腹を抱えた絵描きは躊躇いもせずに、そのパンに齧り付きます。誰からか分からない、冷えた硬いパン。しかし、彼はすぐに食べきってしまいました。
絵の子猫が見守る中、小さく満足げな溜め息をついたロリスは、静かに知らない誰かへ感謝しました。

その日、ロリスは置かれていた紙と短い鉛筆を持って外に出ました。彼は一日かけて、白い雲の浮く広い野原、人々の行きかう街並みを描きました。どれも若い絵描きがたった一日で描いたとは思えないものでした。しかし、やはりと言うのでしょうか。どの画廊でも相手にはしてもらえませんでした。
断られると分かっていても、辛く悲しいことになれるのは難しいものです。荒んだ街は芸術を必要としません。その余裕さえないのです。生きることに誰もが必死で、苦しいのはロリスだけではありません。それでも、このままいればこの絵描きの青年は食べ物もなく飢え死にしてしまうでしょう。
ふらりと頼りなく歩く背を、後ろから誰かが叩きます。振り返ればニコニコと明るい笑顔。街の仲間達が言葉だけですが励ましてくれました。 彼らはロリスが諦めずに絵を描き続けていることを良く知っています。皆冗談めかして「またダメだったのか?」「目が死んでるゾ?」と青年を追い越してゆきました。最後をゆく甘い蜂蜜色の髪をした少年は、「周りの人に見る目がないだけ。いつか絶対君の絵は認められる」と微笑んでくれました。
この街では少年・青年、また少女ですらも、昼夜を問わず大人達に紛れて、炭鉱やら裏町やらで働いています。
自分より辛い仕事をする、その彼らが笑っているというのに、くよくよはしていられません。ロリスは穏やかに微笑み返し、これから働きに行く仲間の背を見送りました。

帰り道、ロリスは長い石畳をとぼとぼと歩きながら、教会近くの公園へと向かいました。そこにはロリスが子供の頃から見上げていた天使がいます。木々に囲まれ、薄い水面に自身を映す翼人像。苦しい時に見ると彼、または彼女の微笑がとても優しく感じられます。
天からの使いに救いを求めるように、ロリスはゆっくりと像へと近付きました。そして、風に紅茶の髪を預けながら、絵を抱えてそれを見上げます。見つめる瞳には疲れがありましたが、先ほどまでの強い意思は消えていました。彼の中に輝きはありません。
どれだけ辛くても口には出さない。出すときっと何かに負けてしまう。自分が嫌いになってしまう。ロリスは一人で生きる最後の支えを自分の意思だと思っていました。現実から逃れているのかもしれません。それでも、何か一つを自分に信じさせることで強くありたいのです。
そのために、天使の前に立って、絵描きは本心ではないことをいくらでも囁きます。この日も「今日も一日、あなたの見つめる世界はとても素晴らしいものでした。そこに生きられて、自分は本当に幸せ者です。」と、辛そうに呟きました。

夜になっても、若い絵描きは食事を取ることが出来ませんでした。空腹に変わりはなく、貧しいことも同じです。神の住む家にいながらも、決して神に愛されているとはいえない暮らし。
ロリスは鉛筆の子猫の前に倒れ込んで、いっそ全てを捨ててしまおうかと考えました。絵を捨て、魂を捨て、堕ちるところまで。飢えた街には飢えた人がいる。彼らは喜んでロリスを買ってくれるでしょう。この街では体も魂も売り物です。
紅茶色の瞳を瞼に隠し、小さく体を震わせます。生きることと比べればそれは簡単なはず。街の仲間は何度も、ロリスが世界に埋もれようとするのを止めてくれました。彼らにとって夢のあるロリスは希望です。今まではそれに応えてこられましたが、この状態ではもう無理です。
ぼんやりとした意識の中で、一つ小さな声が聞こえました。



夜が明けても、ロリスは起きることが出来ませんでした。床に髪を散らし、虚ろな瞳で目の前のものを見上げます。明るい日を浴びた一枚の紙。彼は立てかけた灰色の子猫に話しかけて泣きました。
そろそろダメかもしれない。この街で、自分のような絵描きが普通に暮らすのは不可能だ。今までより辛い生き方をするか、このままそれから逃げて死ぬか。答えは簡単なのに、我が儘だと分かっていても認めたくない。仲間が護ってくれた魂を売ってまで、夢を捨ててまで生きたいとは思えない。
マットの上で丸まって、ぽろぽろと絵描きは涙を流します。無論、それに絵が応えるはずはありません。少しすれば子猫が見守る中、ロリスの静かな声は消えてしまいました。

赤い陽が落ち込む夕方。ロリスの意識は戻ってきました。頬に柔らかな毛の感触があり、何かに起こされたのです。
彼の前には灰色から、夕焼け色に染まった子猫がいます。紙の中から、子猫は静かに座って絵描きを見ていました。しかし、部屋にロリス以外誰もいません。くるりと狭い室内を見回すと、数枚の紙とその上に一切れのパン、そして小さな銀貨が置いてありました。目を丸くするロリスの前で、銀の欠片はきらきらと輝きます。
絵描きは髪を振って背後の子猫に問いかけます。「まさか、これはお前が?」。しかし、子猫は応えてくれません。ただ、色の薄い瞳が一瞬、細められたように見えました。
ロリスは一瞬固まってしまいましたが、すぐ不思議な銀貨を握り締めると、階段を駆け下り街へと走りました。教会から少し離れた店で、数切れのパンと少しのミルクを買います。そして、急いで屋根裏部屋に戻りました。
彼は子猫の前にマットを引き摺ってゆき、その上に座ります。ひびの入った皿を子猫の前に置くと、そこにミルクを注いでやりました。そして、自分は少しのパンを齧ります。
陽が落ちて暗くなった部屋。そこで若い絵描きは子猫に夢を語りだしました。叶わないかもしれない。街の仲間の希望であり続けるのは難しいかもしれない。それでも捨てられない夢がある。
自分は絵で生きてゆきたい。見た人の心が安らぐような絵が描きたい。ロリスは「誰だか・・・・・分からないが、背を押してくれる人がいるから大丈夫。そこでちゃんと見ていて」と笑いました。月と星に照らされて、紅茶色の瞳は輝きを取り戻そうとしていました。



久し振りの満たされた眠り。朝日の暖かさに目を覚ますと、その日は綺麗な晴れでした。マットに包まって覗いた皿は、不思議なことに空になっています。絵の中の子猫は皿の前で澄まし顔です。それを見たロリスは誰へでもなく、くすくすと笑ってしまいました。
絵描きは愛しげに鉛筆の子猫を見つめます。そして、優しく撫でてやりました。子猫はただの絵ですから、触れても動いたり喉を鳴らしたりはしません。ロリスの指がなぞるのはさらりとした紙だけです。それでも、青年はとても満足そうでした。

ロリスは紙を抱えて教会を出ました。そして、穏やかな陽射しの中で、彼は公園の天使像を描きます。人々に幸せを、出来ることなら自分にほんの少しの運を与えて欲しい。彼の描く絵はいつも柔らかいものばかりです。しかし、この時の天使は今までにないほど優しい微笑みを浮かべていました。公園の鳩に囲まれて、ロリスは笑っています。

優しい天使を描き終わると、ロリスは屋根裏部屋に戻り数枚の絵を持ち出しました。天使の絵、子猫の絵も一緒に街の画廊へ持ってゆきます。 何度か来ているロリスを、始め店の主人は鬱陶しそうに迎えました。しかし、普段はそのまま絵を手に取りもせず、冷たく追い返そうとする彼が、この日は一枚一枚を興味深そうに見てくれます。絵描きは珍しいことに驚きつつも、彼の返事がどんなものか、不安そうに待ちました。
全てを見終わると、店主は返事を怖がるように首を竦めるロリスに頷いて見せました。そして、天使の絵だけ置いてみようかと言ってくれます。初めての出来事に呆けるロリス。その肩を、店主は軽く叩いて「いい絵を描くようになった」と静かに微笑みました。

絵描きは帰り道で店主のことを思い返していました。どの絵を見ても頷くだけだった頑固そうな男。それだけでも十分珍しい彼が、最後に手にした子猫の絵を見て、何か驚いているようでした。
店主は何の変哲もない鉛筆画をいたく気に入り、長いこと眺めていました。しかし、その子猫を店に置こうとはしませんでした。「こいつは持ち主を選んでいる。手元に置いてもすぐに逃げていくだろう。大切にしてやれ」と持ち帰るようロリスに言ったのです。
ロリスは灰色の子猫を眺めて首を傾げます。何故、あの店主は絵が逃げるなどと非現実的なことを言い出したのか。確かに子猫を描いてから不思議なことが起きました。絵描き自身も、この絵は少し変わっていると思います。ですが、足があるわけもなく、どうやって逃げるのかは分かりません。
不思議そうなロリスを手の中で見上げる子猫。その瞳は鉛筆で描かれているにもかかわらず、悪戯っぽく輝いて見えます。それは太陽の光のせいでしょうか。

屋根裏に戻ってからのロリスは、運が向いてきたと絵に囲まれて幸せそうでした。その夜は残っていたパンを食べて、返されてしまった数枚の絵を眺めてから眠ります。子猫の前で眠るのはもはや習慣でした。
ロリスの小さな寝息が聞こえだした頃。傍らの子猫は絵描きが寝入ったのを見て、小さく瞬きをしました。そして、するりと紙から抜け出て伸びを一つします。灰色の薄い縞のある小さな体。それをふるふると振って、手を舐めます。器用に顔を洗う仕草を見せた子猫は、眠るロリスを覗き込んで小さく喉を鳴らしました。
声に気付かないロリスを起こさないよう、子猫は音もなく部屋から出てゆきます。置き去りにされた紙には、子猫の座っていた真っ白なシルエットだけが残っていました。



再び巡ってきた朝。ロリスの前には子猫の居ない、ただの白い紙が置いてありました。今までパンや紙を何処からか持ってきてくれていたのは、あの子猫ではないか。薄々そう思っていたロリスは沢山の絵の中に子猫を探し、居ないことに不安を覚えました。絵を返してみても、他の絵を探しても見付かりません。普通ならありえないことなのですが、不思議なことが多く起こっているせいでそれは不自然な行為には思えませんでした。
朝起きて、必ずそこに戻ってきていた子猫。それが今日は何故帰っていないのか。窓から外を覗けば、その日は低く雲が下りてきており、しとしとと雨も降っていました。
妙な不安に駆られ、ロリスは子猫の居ない白い紙を抱えます。そして、外へと駆け出しました。

雨に濡れないよう紙を庇いながら、ロリスは何処に居るかも分からない子猫を探して走り回りました。しかし、半日経っても子猫を見付けることが出来ません。街中を探しても居ない。では何処に?
ロリスは教会そばの公園まで戻りました。そして、細い木々に囲まれた天使像の前に膝を折ります。美しい翼人は普段と変わらず、歳若い青年を静かに見下ろしています。
雨に濡れ、紅茶色の髪が顔に張り付いてもロリスは払いません。じっと彫像に宿る天使に子猫の居場所を問い続けます。

―――雲がふと途切れ、光が落ちてきました。石の天使が、微笑みを深めます。

ロリスは小さく「あ・・・」と呟きました。次の瞬間、彼は力を失ったように水溜りへ倒れ込んでしまいます。光を吸った雫が絵描きを取り巻き、散ってゆきました。

ロリスは天使の前で夢を見ました。
雨に濡れた天使像の前。紙を銜えた小さな子猫が、公園を横切ろうとしています。雨に打たれて、鉛筆で描かれた子猫は少しずつではありますが、目に見えて歪んでゆきました。
歩くのも辛いのでしょう。公園の半ばでふらりと木の下に入り、その場に座り込んでしまいました。そして雨水を拭うため、ひどく滲んだ灰色の毛をしきりに舐めています。しかし、力を奪われた小さな体は水の重みに耐え切れません。目を閉じた子猫は横へ傾き、投げ出した紙の上に倒れてしまいました。
そのまま鉛筆の子猫は雨に溶かされ、誰の気に留められる訳でもなく静かに消えてゆきます。子猫が乗っていた紙には、形にもならないうっすらとした線が残っていました。
ロリスは夢を見ている間、ずっと子猫を呼んでいました。「無理をしてはいけない。早く戻れ」。しかし、声は届かず子猫は消えてしまいました。

ひどい頭痛に目を覚ましたロリスは、雨に涙が溶けたことを知りません。雲が途切れたのが嘘だったように、重い雨は降り続けていました。ぐっしょりと濡れた髪、体を引き摺って、彼は夢に見た木の下へ近寄ります。
天使像が見下ろす中、もう子猫だったとは分からない、歪んだ線の残る紙が落ちていました。それを優しく拾い上げ、ゆっくりと破かないように抱き締めます。
ロリスは、少しの間その場から動くことが出来ませんでした。

絵描きの青年は二枚の紙を抱えて、教会の屋根裏部屋に戻りました。子猫の居た紙、子猫だったもののいる紙。
真っ白になった紙を手に取り、もう一度子猫を描こうとします。ですが、彼にあの子猫をもう一度描くことは出来ませんでした。
光を通さない雨雲のせいか、部屋は薄暗く沈んでいました。

そのまま彼は部屋にこもって夜を迎えました。マットに包まり、滲みのある紙を抱いて、何をするでもなく窓の外を眺めていす。雨が止んで、藍色の空には星がちらほらと見えました。星は闇を寄せ付けることなく輝き、儚く流れてゆきます。
ロリスがそうやって長い間伏せっていると、屋根裏部屋に小さな音が響きだしました。戸をカリカリと引っかくような音。唐突なそれを不信に思いつつも、ロリスは扉に近付き少しだけ開きました。
隙間から澄んだ風が入り込んできます。冷たさに身を縮めたロリスは、廊下を見て首を傾げました。広くはない廊下、急な階段。どちらにも誰もいません。気のせいだったか?と戸を閉めると、足元に何やら柔らかいものが擦り寄ってきました。
くすぐったさに目を落とせば、そこには夢で消えた灰色の子猫が可愛らしくお座りをしていました。大きな色の薄い瞳が、嬉しそうに絵描きを見上げています。
子猫は目を丸くするロリスの足をくるりと一周して、しっぽを揺らしながら部屋の中へと入ってゆきました。そして、白い裾に擦り寄りまたロリスを驚かせます。
ごろごろと懐く灰色の体を抱き上げた白い手。絵描きの前に現れたのは、公園の彫像そっくりの翼人でした。淡い黄金色の長い髪、見た目はロリスと同じくらいの歳。像では分かりませんでしたが、少し背が低い青年です。
彼は固まったまま微動だにしない絵描きを招き寄せ、そばに座るよう言いました。ロリスは驚いた顔のまま、ぎこちなくそれに従います。
手で抱き上げた子猫を撫でながら、天使はロリスに話し出しました。

ロリスが恵まれない生活を送っていること。叶わないと思われる夢を、それでも追い続けていること。その彼を心の支えにしている者が多くいること。天使は全てをずっと見ていました。
彼の存在がこの街に大きく関わっていると「理解」した神の使いは、ロリスを死なせないため、希望を捨てさせないために救い主を送り込もうとしていたのです。そして、ロリスが少なからず想いを籠めていた鉛筆画をそれに選び、とある安らがない子猫の魂を込めました。
子猫は絵になった自分をそれでも愛してくれる、この優しい絵描きを何とか助けようと夜になるたび絵を抜け出すようになりました。空腹と疲れに倒れたロリスに物を与え、そばに付き添い、子猫は小さな守護者となってゆきました。

今回、わざわざロリスに会いに来た一番の理由。それは子猫の正体を知らせるためではないと天使は言います。出会ってすぐ大切なものになっていた子猫の絵を、青年は唐突に失って戻れないほど気を落としていました。そんな彼を掬い上げるために天使は現れたのです。
この荒んだ街に、ロリスの絵は希望や優しさを運びます。その彼には、雨に消えた子猫がまだ必要でした。天使は地上に舞い降り、消え切れない小さな想いに再び姿を与えました。
美しい彼はもはや絵ではない子猫を絵描きに抱かせ、小さな窓を静かに開きます。そしてロリスと子猫が見守る中、真白い翼を器用にたたみ、外へ飛び出しました。
天使は彼らに細かい事情は語りませんでした。ただ、神の家に住む者を神が見ていないはずはない。救いの手は努力を続ける者に差し伸べられる。これからも夢を望み、高みを目指して励めと最後に言いました。
若い姿の天使は、黄金色の長い髪を揺らし鷹揚に頷いて見せます。白い翼は大きく風を孕んで、彼を神の国へと連れ去りました。
星の輝く夜空に白い翼が消えてゆくのを、ロリス達は最後まで見送ります。天使が去った部屋には普段と変わらない静けさが戻っていました。 秋の冷たい風に身を震わせると、腕の中で灰色の子猫が同じように震え始めました。ロリスの腕に顔を摺り寄せ、子猫は喉を鳴らします。また会えて嬉しいのでしょう。撫でる手に任せて、気持ち良さそうに目を瞑ります。
その様子を見て、絵描きは子猫が寒がっていると勘違いしたようです。急いで窓を閉めした。そして、粗末なマットに包まって、宝物を抱くように驚いている子猫を抱き締めました。
緊張に固まっていたものの、子猫はすぐに一声鳴いて動き出します。暖かい小さな体でマットの中をくるくると回っていましたが、ロリスの服に入り込むと満足したのか大人しくなります。落ち着いた寝息が聞こえ始めました。
その夜、絵描きと子猫は食事を忘れたまま、幸せな眠りにつきました。



次の朝、ロリスは子猫にミルクを飲ませるとすぐに家を出ました。数枚の絵と滲みのある紙、真っ白な紙を抱えて公園へ向かいます。もちろん、可愛らしい灰色の子猫も忘れたりはしません。
細い木々の間を縫って、ロリスは天使の前へと駆け寄ります。翼人像は相変わらず静かな微笑みを浮かべ、迷える人々を見守っていました。
絵描きの青年は彼を見上げ、紅茶の瞳を閉じました。肩では子猫が首にもたれかかり、ごろごろと天使に何かを言っています。
ロリスは三角の耳をくしゃりと撫で、天使像に心の中で感謝の気持ちを述べました。口でも小さく「ありがとうございました」と呟きます。そして、元気よく街の画廊へと走り出しました。
昨日の絵が一日でどうこうなるとは思っていません。ただ、昨日とは別の絵を見てもらうために、あの頑固な店主に会いに行くのです。
ロリスの紅茶色の瞳は夢と希望を取り戻し、明るく輝いていました。そう、この後の驚きも知らないままに・・・。



店の外で大人しく主人の言いつけを聞く灰色の子猫。「外で待っていて」と言う彼と子猫の横を、店から出てきた若い婦人が通り過ぎます。紙に包まれた天使の絵を持った彼女は子猫に気付き、その姿に小さく微笑んでゆきました。気付かない主人の代わりに子猫は喉を鳴らして見送ります。

人の目には映らない天使の横に座って、幸せを呼ぶ子猫は主人の喜ぶ顔を今か今かと楽しみに待っています。

―終―





そらいろ 実験場